2007年06月27日

あるところで

 某所で、キャロルの小説について、「世界観を提示しただけで終わってしまう」という評を目にした。当然評価は低い。

 正直ちょっとむっとしたけど、言っていることには一定の根拠がありそうな気もして、ちょっとだけ考えてみた。

 『死者の書』はこれにはあたらない。世界観が提示されるのは物語中盤であり、そこから先は、そのルールに基づいた、きわめて「フェア」な展開と結末になっている。

 『我らが影の声』はどうかな。ちょっと微妙。結末がそれまでに語られた世界をことごとくひっくり返してしまい、そういう意味では「本当の世界」を提示したところで終わっている、とも言える。伏線はあるんだけど、それまでの描写は何だったの、という部分もあり、ちょっとアンフェアではあるし。

 『炎の眠り』ではずいぶん近づいてくる。
 『空に浮かぶ子供』はわりと言われている通りかも。

 とかなんとか考えていて、『犬博物館の外で』まできたところで、唐突に、気がついてしまった。

 ああ、そうか。
 こういう風に言われるのも当たり前。
 キャロルの小説は、基本的にどれも、「世界とは何か、それはどういう仕組みで動いているのか」ということに関する話なんだ。

 それは「私は世界に対していかにコミットしていけるのか」というテーマとも重なる。

 キャロルは執拗に悪意について描いている。
 それは人間による悪意である場合も多いが、究極的には「世界の、人に対する悪意」であり、その最大のものが「死」だ。

 主人公は悪意に翻弄され、様々な形で問いかけを発する。

 これはなんだ?
 なぜこんなことが起こるんだ?
 このことにどんな意味がある?
 こいつは何がしたいんだ?
 これが、「世界」の究極の姿なのか?

 そう、キャロルの小説の登場人物たちは、世界について、何もわからないまま、手探りで、その意味を探している。
 そして結末で、それを手に入れる(ただしそれはしばしば残酷なものだ)。

 ああ、これではまるで、いわゆる「P.K.ディック的悪夢」じゃないか。

 軽い語りと適度に深い警句など、俗受け要素をたくさん持ったキャロルの小説に対して、著名なファンたちが口を揃えて「悪夢的世界」みたいなことを言っているのも道理。
 果ての見えない、何の見通しもない、悪意に満ちた世界、キャロルの小説に描かれているのは、基本的に、そういった世界なのだ。

 しばしば救いが用意されているのも事実だけど、それと同じくらい、より残酷な真実の中に読者を放り出すこともあるのがキャロルという作家。

 非ファンタジー作品である『蜂の巣にキス』でもこれは全く同じで、ミステリファンの評価は、そりゃあ低くなるよなあ。
 
 
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posted by けいりん at 00:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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